昭和52年10月26日 朝の御理解



 御理解 第70節
 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」

 「道理に合う信心をせねばならぬ」と。世の中には沢山な宗教があります。その宗教の中には、どんなに考えても道理に合わない信心が沢山ございます。そう言う様な所も指摘しておられるのかも知れませんですね、この御教えは人間は万物の霊長じゃないか。そんなら「万物を見て道理に合う信心をせよ」と。第一に天地の大道理を説かれて、その大道理に合うた生き方をせねばならんというふうに教えてある。
 世の中には沢山の宗教がある。どんなに考えても素晴らしい教えもあるけれども、その教えの中に道理に合わないものもあると言う事です。だからその辺の所の判断がまず付かなければならない。「道理に合う信心」「わが心が神に向かうのを信心」と申しますし、金光大神が受けられた御神格、生神金光大神というそこまでは誰でもが昇ってこれるんだと。いわゆる生神を目指すとも言われる。
 そういうその生神を目指すとか、わが心が神に向こうて行くという、その前提ともまた内容ともならなければならないのは、まずは人間が万物の霊長としての値打ちをまず頂くことだ。人間の面してるから皆が万物の霊長と言う事じゃない。霊長としての値打ちが発揮出来れるおかげを頂かしてもらうと言う事なんです。人間は皆神様の言うならば分霊だと。生神様になれる言うならば、素養というか内容を持っているんだと人間は。だから持っておるだけではつまらん。
 「人間は万物の霊長だ」と言うて威張っとったところで、霊長としての値打ちも現わしきらなかったら、そりゃもう霊長じゃない。人間の面しておるだけなんだ。そこで私共が、霊長の値打ちである値打ちを、値打ち足らしめるために信心修行があるわけです。いわゆる真の信心がいるわけ。霊長としての値打ちが発揮出来れる。それからまた神へ向こうて行くという信心、または生神を目指すと言う事は、まず霊長としての値打ちを頂いてからのことなんです。
 それにはねやはり一つの根性の様なものがいるですね。しだごだでは霊長としての値打ちは出来ません。例えば冷血動物である所の、蛙とか蛇のようなものでも、降る照るの事が判るというじゃないかと。人間が万物の霊長と言うて威張っとっても、降る照るの事一つも分からぬ様な事で、どうするかと言う様な御理解を頂いた事があります。霊長としての値打ちが段々出て参りますと、やはり霊徳を受けます。それこそ降る照るぐらいの事ではない、天地が自由になる程しのおかげも頂かれる。
 ですからそういう内容に尊いものを頂いておっても、尊いものが垢やら汚れで埋もってしもうては、やっぱり霊長としての値打ちと言う所にはならない。人間であると言う事だけではいけない。人間は万物の霊長としての値打ちが発揮出来れるおかげを頂く。それにはここ一両日頂いておりますように、言うならば辛抱力が出来ないけません。「今日も結構な辛抱し貫かせて頂いて有難うございました」とお礼の言えれる一日一日でありたい。そういう一日一日が徳の積み重ねだとこう言います。
 だからどうしてもそこに根性がなからなきゃ出来ません。今日は愈々末永先生が、あちらへ帰らしてもらいます。昨夜夕食を一緒にまあ当分は最後ですから、それで修行生の方達も皆ちょいとお相伴に出てきて、まあ終わりましたんですけど、昨夜十二時過ぎちょっとここへお礼に出てきますから、出て参りましたら、共励殿でもうどんちゃん騒ぎをやってます。昨日青年会があってましたから、青年会がまあ私共が致しておりました、それに合流したかなんかじゃないかとこう思う。
 私が立った後にそれともそういう話し合いが出来ておったのかなんか知らんけども、昨夜遅うまでどんちゃん騒ぎさして頂いておる。まあ皆が末永先生を中心にして、当分の別れを惜しんでおるわけですからそりゃ結構。ところが今朝の御祈念にここの修行生の方達が皆出て来てない。昨夜言うなら飲み過ぎたとか、頭が痛いとかちゅう事じゃないでしょうか。これは私が子供の時でも、好きな芝居を見にいったり、映画やら行くとあさがもう起きれめえがと言われたりね、起きれんと。
 そういう自分の好きな事をした時なんかは、かえって早起きしよりましたです。でなかったらまた行かれん。私はそのくらいな根性がなからにゃいかんと思うです信心さして頂くなら。飲んでもかまわん。けども飲んだ時には却ってね、一根性起こして例えなら一番初めから最後まで、お付き合いしてた末永先生はちゃんと出てきておるじゃない。私はそのくらいな根性では、何時まで経ってもうだつは上がらんと思うです。
 神を目指すとか霊長として値打ちを発揮出来るような、とてもとてそんな事出来やしません。ただ道理が判ったとか、信心が判ったというだけです。合楽理念も厳しゅう言うならそう言う所が説いてあります。辛抱させて頂いて今日も辛抱し貫かせて頂いて、辛抱の出来んごたるところを辛抱さして頂いて、有難いとお礼が申し上げれるような心の状態が開かれてこなきゃならない。
 もう以前に頂きました御教えの中に、「味苦魅楽」と言う事を頂いた。味苦と言う事は、苦労を味わうと書いて、苦労を味わう「味苦」。魅楽とは楽に魅せられないと書いて、楽な方へ魅力の魅ですね。もうこの精神が信心の中に一貫して何時もなからなければ、神に向かうとか、霊長の値打ちが出来ることは絶対ないです。もう楽な方へ楽な方へ、楽な方へ楽な方へと、人間という者はね、もうちょっと楽をし続けますと楽癖が付く。少し遊びを覚えますと遊び癖が付きます。
 夜遊びども始めると、こりゃもう体験者が語りよる訳ですけど、もう出て歩かなきゃ気色の悪うしてこたえんごとなってくる。ですからそれを踏切を付けると言う事がいるんです。やはり根性です。こげなこっちゃ自分ないけんぞと思うたらそれをスパッと切り替えれる根性がいると思う。その辺の所をね、しだごだで信心をどんなに続けたところで、際立ったおかげは頂かれんです。言うなら万物の霊長の値打ちを発揮出来れると言う様なおかげにゃならんです。その辺の所をです。
 私は今日は最後に道理に、「万物を見て道理に合う信心をせねばならん」と仰っておられることは、天地の道理と言う事と同時にです。成程尤もだと言う事です。今日私が言っておることは。やっぱり先生が言われるように、言う事に尤もだと言う、言わば共感を皆さんがして下さるならばです。今日はそれを聞いて頂いておるのです。ほんなこと先生が言われるなら、遊びにいっても良い飲んでも良い。
 それが後がぐずぐずするごたるならば「もう遊びに行くな、もうそげんなるごと飲むな」と必ず言われるに違いない、だからそげん時に反対にです。遊びにでも行った時には、却って次はもうシャンとするとか、「昨夜は遅かったけんで」、と言うごたる時にはです。却って、言わば早起きでもするくらいな根性がなからなければ、神を目指すとか、霊長の値打ちを作るとか言った様な事は出来ん。「成程先生が言わっしゃるとが尤もだ」と判ったら、尤もだと言う事を実行せよと言う事なんです。
 今日「道理に合う信心をせねばならん」と言う事。そこんところがしだごだで出来んくらいのことでは、例えば生神を目指すてなんてんと言う様な事は、言うだけであって出来ることじゃない。だから際立っておかげを頂いておる人を見ると、そう言う所がやっぱり、際立っとると言う事になるのじゃないでしょうか。「もう昨夜遅うなったことは神様もご承知じゃけん」というごたることじゃ出来ん。そりゃ途中で眠り倒れるごたることになるかもしれん。
 それでもそこを辛抱し貫かせて頂くから、「今日も結構な辛抱させて頂いて有難うございました」という、本当に有難い、辛抱し貫かして頂いたとしてのお礼が言えれる。それが貯まり貯まって、霊長としての値打ちを作って行くのであり、神へ向かって一歩前進して行くことが出来るのです。言うならば、金光様の御信心は生神様になる稽古です。ですからちっとは違わにゃいかんでしょう。言うならば、辛抱の出来んごたるところを辛抱さしてもらうと言う事が、言うならば味苦です。
 その苦労の味わいです。そん時ゃ苦しい。けれどもその後に最後に一日を締め括ってです。「今日も本当に眠り倒れるごとございましたけれども、辛抱し貫かして頂いて有難うございました」と言う、心からのお礼が言えれるです。言わば苦労の味わいを一つ判らしてもらう信心。そして楽な方には魅せられない信心。楽なほうに魅せられますと、もうこれは限りがない程に、いわゆる楽癖遊び癖と言う様なものが付いたら、愈々それからもう本当にそうですよ。
 金光様の信心を本当に頂こうとしたら、遊び事という例えば賭事なんかちゃ絶対出来ませんですね。しちゃ出来んじゃないです。それが出来んぐらいな私にならなければ、神へ向かう信心精進は出来ん。こりゃいかんと思うたら、そこにシャンと踏切が出来るくらいな強い心を持っておればまた別かも知れませんですけどね。「道理に合う信心をせねばならん」と言う事を、「天地に道理に合うた」世の中には沢山宗教がある。けれどもどげん考えても天地の道理に合わない、言うならば宗教も教えも沢山あると言う事。
 ところが教祖金光大神が教えられておることは、もう道理に合わない教えちゃ一言もない。そして成程、これは人間生身を持っておる者が助かる事のためにある宗教だなあと言う事がはっきり判る。だからそういうなら、尊いものを私共が愈々身に付けて行くためには、いわゆる信心の稽古がいるけれども、その稽古にはやはり筋金が通っておらにゃいかん。言うならば根性がいると言う事。言うならばしだごだにしてはならない。
 昨夜飲んで疲れると成程それは誰でも疲れます。そういう時になら尚更一頑張りが出来る位な、言うならば根性が欲しいと言う事です。私が子供の時にお芝居やら映画やら見れる「朝が眠かろうが」ち。それでもやっぱり好きですから行きます。また行っちゃならんと言われちゃならんから、もうそげん時には却って早起きをする。だからまた行くでも「もう行くな」とは親も言われん。位なね根性を信心には必要とすると言う事。
 まず神に向かう前に霊長としての値打ちを、私共が発揮出来れる様なおかげを頂きたい。そして神へ向かうと言う信心。ただ金光様の信心しよります。毎日お参りしよりますだけでは、霊長の値打ちも出来る事もなからなければ、神へ向かうと言う事にもならない。唯おかげを頂いておるだけでは本当の事ではない。霊長としての値打ちが発揮出来れる所まで、お互い信心を進めさして頂く、何というかね根性が必要である。
 そのためには一つ皆さんの心の中に、「味苦魅楽」と言う事を、心の中に焼き付けておかなきゃならない。苦労の味わいを味わう。楽な方へ魅せられる。もう魅せられて惚けてしもうたらおしまい。楽な方にはなかなか転びやすい。そこんところを私共が踏切を付けるためには、一つの根性がいると。今日は「道理に合う信心をせねばならん」と言う事を、天地の道理じゃなく、「親先生が言うとが、成程尤もだ」と言うふうに聞いて頂きたい。「やっぱりそうじゃろう。
 だから先生はおかげ頂かっしゃったじゃろう」と判って頂きたいと思う。「成程末永先生がおかげが頂けるはずだ」と言う事を判って頂きたい。その辺の根性の相違なんだ。それを今日は、そういうおかげを頂くためには、そういうやはり道理なんだ。おかげを頂く道理なんだ。だから「成程尤もだ」を付けて頂いて、そこを自分たちの信心に頂いて行かなきゃならんと言う事です。
   どうぞ。